もうすぐ全線開業50周年!大阪と博多を結ぶ大動脈・山陽新幹線が「明太子の普及」と「広島カープ初優勝」のきっかけを作った⁉
新大阪から博多までを結ぶ山陽新幹線。1975年3月に全線開業し、もうすぐ50周年の節目を迎えます。実はこの1975年、博多の明太子が全国に広まり、広島カープが初のリーグ優勝を果たした年でもあるのです!
「明太子の普及」と「広島カープ優勝」この2つのきっかけを山陽新幹線がどのように作ったのでしょうか?そのストーリーに迫ります!
- 博多名物の代表格「辛子明太子」!ルーツは創業者の「幼少期の思い出」
- 試作を繰り返すも反応は散々…試行錯誤を繰り返し、完成までにかかった期間は○年!
- 出張で訪れた県外のビジネスマン達によって “博多の幻の美味”に!
- ついに新幹線が開業!俊夫の驚くべき行動で明太子の運命が変わる
- 「ミスター赤ヘル」激白!広島カープのリーグ初優勝は山陽新幹線のおかげ⁉
- 広島に希望を与えるべく設立された市民球団。運営資金は〇〇で集めていた⁉
- 万年Bクラス…その要因は「過酷すぎる移動」に!
- ついに山陽新幹線が全通!同年に悲願の優勝へ…!
- 注目の駅ビルプロジェクトとは?今でも進化を続ける広島!
【ドラマ】知られざる“山陽新幹線”が変えた「明太子」と「戦後の貧乏球団」の運命物語【もしマネ】 - 番組情報
博多名物の代表格「辛子明太子」!ルーツは創業者の「幼少期の思い出」
まず一つ目は、「明太子の普及」。ご飯のお供として一番に名前が挙がる人も多いのではないでしょうか。
その明太子の歴史を作ったのが、博多にある明太子発祥の店として有名な「ふくや」です。
ふくやマーケティング部の中山徹也さんにお話を伺うと、50年前に山陽新幹線が博多に乗り入れするようになったことが、明太子が全国に広まっていくきっかけになったという事実が判明します!
明太子が生まれたのは、1949年。そのきっかけは創業者の川原俊夫と妻・千鶴子のあるやり取りでした。もともとは博多にあるごく普通の食品店だった「ふくや」。売り上げは良かったものの現状に満足していない俊夫は、この店にしかない独自の製品を作りたいと考え、千鶴子に伝えます。
そこで思いついたのが、釜山で食べた、たらこのキムチ漬け「明卵漬(ミョンランジョ)」。もともと戦後に韓国の釜山から博多に引き上げてきた俊夫が幼少期に食べていた思い出の味で、これを再現したものを店の名物にしようと決めたのでした。
試作を繰り返すも反応は散々…試行錯誤を繰り返し、完成までにかかった期間は○年!
こうして、明太子作りがスタート。子供の頃の記憶でスケトウダラの卵に味付けするも、なかなか思うようにいきません。さらに近所の人に試食してもらうも、反応は散々。当時、唐辛子の辛さに慣れていなかった日本人の口には合わなかったのです。
そこで、辛さを抑えるために砂糖を入れてみるなど、試行錯誤を繰り返します。月日は流れ…なんと10年!1959年、とうとう俊夫・千鶴子が納得する「明太子」が完成します。
辛みを減らすポイントは、唐辛子をパウダー状にすることでした。これによって辛みを抑えつつ味が馴染み、辛味も風味もバランスよく作ることができるのです。
出張で訪れた県外のビジネスマン達によって “博多の幻の美味”に!
完成した明太子は、中洲の料理店が酒のつまみとして出していたのをきっかけにじわじわと人気が拡大。あまりの美味しさにお土産にしたいという声も増えてきました。
しかし…ふくやの明太子は博多での製造・販売をモットーとしており、新幹線もない時代に気軽に買えるものではありませんでした。そこで、どうしても食べたい人は、現金書留で「このお金で売ってください」と手紙を送るという、まさかの行動に出たのです。
ついに新幹線が開業!俊夫の驚くべき行動で明太子の運命が変わる
その後1975年、とうとう山陽新幹線が博多までやってきました。全国の会社の支店が多い博多は、新幹線のおかげで日帰り出張ができるようになり、賞味期限の短い明太子もお土産にしやすくなったのです。
さらに、博多の街を盛り上げたいという気持ちが強かった俊夫は、明太子は誰が作ってもいいと考え、10年かけて作った製造法を秘密にすることなく広めました。
こうして、明太子は博多の土産物として定着したのです。
「ミスター赤ヘル」激白!広島カープのリーグ初優勝は山陽新幹線のおかげ⁉
続いてのテーマは「広島カープ初優勝」。当時「セ・リーグのお荷物」と揶揄されたチームが1975年にリーグ優勝を果たしたのです。
「新幹線の影響が少なからずあった」と語るのは、「ミスター赤ヘル」の愛称で知られる山本浩二さん。現役時代は広島カープで活躍し、WBC日本代表監督も務めた球界のレジェンドが、山陽新幹線がもたらした大逆転劇について語ります!
広島に希望を与えるべく設立された市民球団。運営資金は〇〇で集めていた⁉
広島東洋カープが創設されたのは1949(昭和24)年。鉄道企業を親会社に持つ阪神タイガースなどとは違い、 市民球団として立ち上がりました。その目的は原爆に打ちひしがれた広島の街に希望の光を与えること。母体がないため運営資金に乏しく、市民からの樽募金によって支えられていました。山本も子どもの頃に募金をした一人です。
万年Bクラス…その要因は「過酷すぎる移動」に!
地元からは愛されるチームでしたが、残念ながら決して強い球団とは言えず、設立後は万年Bクラス(下位3チーム)。「セ・リーグのお荷物」とまで言われ、1972年から74年は3年連続最下位という始末でした。
その要因の一つが、試合に出向く時の大変さ。山陽新幹線がなかった時代、唯一東海道から外れた場所にあった広島カープ。広島から大阪は在来線で3~4時間、さらに東京までは10時間以上かかるという過酷な移動を強いられていたのです。
自分のバッグやユニホームは自ら運搬。さらに…客席も埋まっているという状況では、選手たちは車両の床に新聞紙を敷いて横になるという、まるでプロ野球選手とは思えない方法で移動していました。
ついに山陽新幹線が全通!同年に悲願の優勝へ…!
そんな中、1975年に山陽新幹線が開通!チームは待ち望んでいた快適な移動を手に入れました。
ここからチームは奇跡の快進撃を繰り広げます。そして10月、球団設立25年目にして悲願のセ・リーグ初優勝を成し遂げたのです。
こと山本に関しては、この年ゴールデングラブ賞を受賞し、MVPにまで輝くという活躍ぶりでした!
優勝後は山陽新幹線で広島に凱旋!ホームは優勝をお祝いするファンで埋め尽くされていたそうです。
山陽新幹線の開業は、まさにプロ野球界の勢力図を塗り替えてしまったと言っても過言ではないのです。
注目の駅ビルプロジェクトとは?今でも進化を続ける広島!
山陽新幹線は全線開業から半世紀を迎える今でも広島の発展に貢献し続けています。
中でも大注目のプロジェクトが、新しい広島駅ビル「ミナモア」の建設!ショッピングセンター、映画館、ホテルなどが入居する大規模複合施設となる予定です。
新幹線を起点に、広島の街はまだまだ進化を続けています!
【ドラマ】知られざる“山陽新幹線”が変えた「明太子」と「戦後の貧乏球団」の運命物語【もしマネ】
番組情報
〇番組名
日経スペシャル もしものマネー道もしマネ
〇内容
『もしもの時』に備えるマネー道!マネー活用バラエティ!
〇放送日時
テレビ大阪 第1~3日曜日 午後2時放送!放送終了後はYouTubeチャンネル、TVerで無料見逃し配信中。
〇番組HP
https://www.tv-osaka.co.jp/ip4/moshimane/
〇もしマネYouTube再生リスト
https://www.youtube.com/watch?v=6Wfd4Gf2l74&list=PLtu-h0BP6Mk-n6KEfGFbhk6dQLJuhYTgU
〇番組TVer
https://tver.jp/series/srxig6d8zn
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